たとえ生まれてきたくなかったとしても、幸せな人生を送ることはできる〜Ray Castellino氏の逝去に寄せて


わたしのセラピーの師の一人である、Ray Castellino氏が、先日光に還りました。

(写真は彼のfacebookよりお借りしました)

 

周産期セラピーの専門家であるレイは、何千人ものクライアントの誕生前後のトラウマの癒しに関わってきました。

 

その体験を通じて、レイは、生まれることと死ぬことが等しく恩寵であることを、心の底から確信していたのだと思います。
亡くなるちょうど1週間前にレイから届いたメッセージは、死を本当に前向きにとらえた素晴らしいものでした。

 

親愛なる友人たちへ、

今生での進捗状況についてお知らせする時が来たようです。日々、新しい変化があります。ひとつとして、前日と同じことはありません。

ひとつの確かなレッスンは、我々の誰一人として、人生で明日何が起こるかを知らないということです。実はわたしは、瀬戸際にいるのが好きなんです。そして、夜目を閉じる時に私は「今夜がその時だろうか」と自問し、そして微笑むのです。もしかしたら今夜が自分が逝く時かもしれず、そしてそれがうれしいのです。

ここは向こう側の世界とは本当に紙一重の場所で、みなさんは死がやってくると思うかもしれないけれど、実際のところ、それは生命を与えるということなのです。そこでは、我々は静寂の中に座り、我々にわかることは今この瞬間にあるということだけです。

そしてそのプレゼンスの中では、愛こそがすべてです。わたしたちはみな、自分は愛について何かを知っていると思っていますが、毎瞬、そこにはそれ以上のものがあります。愛がただやってくるのです。

さて、わたしは、生命をつなぐために自分のすべてを捧げるプロセスの真っ只中にいます。しかしながら、真実は、そして核心は、わたしはただ、逝きたいのです。そこにはあきらめも喪失もありません。それがものごとのあるがままの姿だからです。心の奥底から、わたしは神の意志に従うことを願っています。

そしてその神の意志は、われわれはみな、遅かれ早かれ連れていかれるんです。死は素晴らしいものです。死と隣り合わせにある生は素晴らしいものです。

 

知るべき大きなことはふたつあります。ひとつめは、我々はみな愛されているということです。あなたは愛されています。常に、いつでも。

ふたつめは、死は恐れるものではなく、たとえ何歳で訪れようとも、抱きしめ、歓迎するべきものだということです。わたしはこのことを、喜び、愛、感謝を持って言います。

ひとつの疑問は、それには痛みを伴うだろうかということです。答えは「はい、そこには痛みがあります」です。それは奇妙なことです。なぜなら、痛み自体はこのわがままな魂に対する神の配慮だからです。それはわたしを故郷へと呼ぶものです。

(中略)

わたしが語ったことを、少しは理解していただけるように願っています。わたしたちは共にこの地球にいました。わたしたちは互いのハートと魂に触れ合いました。そうすることで、もしあなたがたの誰かを傷つけたことがあったとしたら、わたしはそれを深くお詫びします。同時に、あなたと、我々が知り合った方法で知り合えたことを心から感謝します。いい人生でした。
ありがとう、そしてすべての人に祝福を。

愛しています。

レイ カステリーノ
(訳は藤原)

 

そして彼は、自分の言葉通り、穏やかに、家族の愛に包まれながらこの世を去ったそうです。

 

彼への追悼として、2016年にある雑誌に寄稿した、レイのワークショップの体験談をここに再掲します。

 

折しも、今日は冬至。

一年で一番外側が暗く、自分の内面を見つめるのに適した時期で、しかも風の時代の幕開けでもあります。

これからはもっと、輪廻転生や死後、生前の世界について、普通に語られる世の中になっていくのでしょうね。

 

〜たとえ生まれてきたくなかったとしても、幸せな人生を送ることはできる〜
(日本ソマティック心理学協会機関誌VOSS 第2号より)
 
「自分は、何のために生きているのだろう」「本当は生まれてきたくなかった」。生きることがつらい人は、しばしばそうした疑問や気持ちを抱く。

仕事柄、実際にクライアントからそう言われることもある。つい先日も、セッション中に「もう嫌。何もかも嫌。生まれてくるのも嫌だった。ずっと(あの世に)帰りたかった」と言って号泣したクライアントがいた。皆さんはそんな時、相手にどう答えるだろうか。

現在のスピリチュアルな「定説」では、人は自分で生まれることを選んでこの世にやってくるということになっている。たとえ過酷な環境でも、虐待する親でも、それは魂の成長のために自分で選んだことなのだと。

確かに人生にはそういう面もあるのかもしれない。しかし、私のセッションを受けにくるのは、普通の人が想像もつかないような過酷なトラウマを生き延びてきたクライアントたちである。そんな彼らに対して、ある意味「自己責任」的なスピリチュアル論を説いても彼らが生きる意欲を取り戻せるとはとても思えなかったが、数年前、ある個人的な体験を通じてようやく彼らに確信を持ってかけられる言葉が見つかった。それがこの文章のタイトルである。

今では、「生まれてきたくなかった」とクライアントが言うたびに、この言葉と、そう確信するに至ったエピソードを簡単に話すことにしている。これまでのところ、私の話を聞いたクライアントは皆、魔法のように明るい表情になってセラピールームを後にする。同じように感じている人が、彼らのように笑顔になれることを願い、私の人生観を大きく変えたその体験についてここに記してみたい。

 

南カリフォルニアに、レイモンド・カステリーノ(Raymond Castellino)という周産期療法の専門家がいる。著作がないため日本はおろか米国ですら知る人ぞ知る存在であるが、ハコミセラピーのロン・クルツやSE療法のピーター・リヴァイン、ホロトロピック・ブレスワークのスタニスラフ・グロフにも匹敵する、非常にオリジナルなセラピー技法を生み出した素晴らしいマスターだと私は思う。

音楽家であり、クラニオセイクラルの専門家でもある彼は過去45年間にわたり周産期トラウマを専門に扱ってきており、今までに彼のワークを受けた人は延べ三千人以上にのぼる。

 

 そんな彼のワークの真骨頂である「Womb Surround Process Workshop」と呼ばれる5日間のワークショップに、縁あって2014年の初めに参加することができた。

私は米国留学中にさまざまな癒し系ワークショップやリトリート、トレーニングに参加し尽くしたいわば「癒しオタク」であるが、これまでに参加した数々のワークショップの中でも、レイのこのワークショップは群を抜いてインテンスなものだった。

定員はわずか7人で、最終日をのぞいてワークは朝の9時から夜の9時〜11時まで続く(決まった終了時間を設けていないのにはちゃんと理由がある)。

参加者が1人ずつ、今の自分の生き方に影響を及ぼしている早期の刷り込み(earlyimprinting)のパターンに取り組み、残りの参加者とレイとアシスタントの計8人は、その人のために安全な子宮代わりの空間を作ってそのワークをサポートする。

ワークショップのフォーマットはすべて、周産期トラウマの癒しのために注意深くプログラムされており(定員が少ないのもそのためである)、ワークの順番を決めるところからプロセスはすでに始まっている。周産期のトラウマは多数の分娩を同時に扱う病院での管理された出産(自然のリズムを無視した促進剤使用や帝王切開など)に起因する場合も多いからである。各回のワーク前には、参加者はそれが自分の番かどうか、自分の番ではないとすればそれはどうして分かるのかといったシェアをまず行う。そして、そこにいる全員が、「次は自分(彼/彼女)の番だ」と納得してからその回のセッションが始まる。

 

自分の番が来た人(turn personと呼ぶ)が最初に行うのは、ワークの意図(intention)を設定することである。「自分の力を取り戻したい」「自分の創造性を拓きたい」「人生に喜び、平和を感じたい」など、自分が望むことなら何でも意図として設定してよい。その意図をそこにいる全員で共有し、レイがturn personをその意図にまつわる周産期の身体的な記憶に導く。(大抵の場合、妊娠中のある時点や出産前後の時期に戻ることが多いが、私が参加したワークショップでは、受胎前の時点に戻った人もいた)そして、実際の出産時、あるいは妊娠中に欠けていた体験や未完了の衝動を、我々8人が、turn personのために安全な子宮環境を作ることによって再体験/完了できるようにサポートする。

例えば、病院の都合で、まったく陣痛が来ていない段階で促進剤を打たれ、そのせいで分娩がうまく行かず、最後は緊急帝王切開で生まれた人には、彼女が自分から生まれたくなるまでとにかく待つということをする。また、セッションの中でいったんは生まれたにもかかわらず、「今の生まれ方は納得いかなかったからもう一度やり直したい」という人がいれば、彼女の「生まれ直しの生まれ直し」をサポートする。

前述のように、出産トラウマには「準備ができていないのに無理矢理生まれさせられた」という時間の制限にまつわるものが多い。レイから初日の冒頭に言われたのも、「この世の時間がすべて自分のものであるかのように、時間と共にいるように」ということだった。そのためにこのワークショップは終了時間をあえて設定していない。サポートする側はさすがにへとへとになるが、こうした時間にまつわる修正体験は、我々の心身の奥深くに刷り込まれた早期トラウマの癒しには非常に重要なのである。

 
 

私がこのワークショップに参加して得た大きな気づきと学びはふたつあった。

ひとつはやはり、時間に関するものだった。私は母親の陣痛が微弱だったため、陣痛開始から誕生までに60数時間を要し、最後は陣痛促進剤の助けを借りてようやくこの世に出てきた人間で(これは母子手帳にも記録されている事実である)、私が人生で抱いてきた理不尽な恐怖のひとつに、「人は私のことを待ってくれない」というものがあった。1対1のときはともかく、集団で待ち合わせをしたときには、「1分でも遅れると皆に置いていかれる」という強迫観念が常にあり、その恐怖を私は自分の出産体験に起因するもの(お医者さんたちが私が生まれてくるのを待ちきれず、促進剤を使って無理矢理私を外に出したため)だと思っていた。

 

ところが、レイのワークショップで実際に自分の出産前後の記憶にアクセスしたときの体験は、私のこれまでの思い込みとは異なるものだった。産道をくぐり抜けようと何度もトライしていた私がありありと感じたのは、この上なく無力な諦めの感覚だった。

その時レイに、「その諦めを感じているのは誰かな?」と聞かれて初めて、私はそれが母親が感じていた感覚だったということに気づいたのである。母親は分娩のある時点で、私を産むことを精神的に諦めてしまったのだ。

そして、医者が促進剤を使ったのは、母が諦めた後だったということが私には分かった。つまり、お医者さんたちはぎりぎりまで私が自力で生まれる(母が自力で産む)ことを待ってくれたのだ。

そう気づくと、確かに腑に落ちるものがあった。私が生まれたのは日曜日の昼間である。もし出産が病院の都合で進んだとすれば、木曜日には陣痛が始まっていたはずだから、人手が足りなくなる週末まで待つことなく金曜日の夜までに私は外に出されていたことだろう。その事実に身体感覚を通じて気づいたことは、私にとっては大きな癒しになった。

「人は私を待ってくれない」から「皆は私のことをぎりぎりまで信じて待っていてくれた」へのシフトは、本当に大きかった。あのワークからちょうど2年経つが、その間にゆっくりと内面で変化が起こり、現在の私はかつてのような理不尽な「置いて行かれる恐怖」は感じなくなっている。

 
 
・・・ここまでは長い前置きで、ここからが、タイトルにまつわる本題である。
 
セッションのある時点で、レイはこう言ったのだ。
 
「私がこれまでワークしてきた人の中には、生まれてきたくて生まれた魂ももちろん多かったが、生まれてくることに抵抗があり、何らかの運命によって困難な人生に強制的に送り出されたと感じている魂も多かった。私もその1人だよ」
 

これを聞いたとき、心の底からほっとしたことを私ははっきり覚えている。

生まれる前のことなど、本当のところは誰にも分からない。でも、霊能者が一般人には分からない能力を使って垣間見たあの世の話ではなく、実際に何千人もの周産期セラピーに立ち会った彼の口から出た言葉は本当に説得力があった。何故ならそれはすべて参加者の直接体験で、実際に彼ら自身が語ったことだからだ。さらに、レイ自身もそうだったというのだ(彼は第二次世界大戦中のカリフォルニアで、イタリア移民の機能不全家庭に生まれている)。

 
それを聞いて、私は思わずこう訊ねた。
 
「それで、あなたは今幸せなんですか?」
 
「ああ、とても幸せだよ」
 

齢70を超える(そして、驚くほど若々しい!)彼は、満面の笑みでそう答えてくれた。

私がクライアントに確信を持って告げられる学びを得たのは、まさにこの瞬間だった。
私たちは、この世に生を受けるのに、自ら望んでここに来なくてもいいということ。そして、たとえ生まれるのに抵抗があったとしても、それでも生まれた後の人生は幸せなものになり得るということ。このことを実際の体験者から直接聞いたのは、私にとってどれほどの希望になったことだろう(はい、そうです。私もレイと同類です)。

 

・・・あのセッションから2年。今では私も、自分の体験としてもますます確信を持って、同じ台詞をクライアントに伝えることができている(私も今、生きていることが幸せなので)。

もちろん、そう言えるようになるまでには本当にさまざまな癒しのプロセスを経てきた(おそらくレイもそうだ)。でも、この世へのエントリーが過酷だった魂にとって、それでも人生で幸せを感じることが可能なのだと知ることは、それだけでどれほどの救いになることだろう。

 
あなたがこの世に生まれたのは、取り返しがつかない失敗などではない。
人生は、いつからでもやり直せるのだ。
そう、例えば第一志望に落ちて嫌々入学した滑り止めの大学が、実は素晴らしい学校で、良い友人や恩師に恵まれて充実した学生生活を送れることだってあるように。
 

このつたない文章が、「本当は生まれたくなかった」魂たちにとっての、ささやかな希望になることを願いつつ。

 

2014年1月、ワークショップに参加した時の写真をようやく見つけました。参加者の一人がメールで送ってくれたものです。

 

亡くなる間際のレイ。(彼のブログよりお借りしました)

レイ、本当にありがとう。またどこかで会えますように。

 

 

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