ひさしぶりに、ものすごくワクワクする本を読みました。
大西つねき著「私が総理大臣ならこうする」です。
つねきさんは、ご存じ、昨年の参院選にれいわ新選組から立候補された、元為替ディーラーで金融経済の超専門家です。
でもわたしは、彼の本職は思想家だと思っています。
しかも、この世に存在するどんな思想家よりもずっと優れた思想の持ち主です。
世に思想家は大勢いますが、
大抵の思想家は、現状を分析したり、批判するだけです。
(わたしは内田樹先生が大好きですが、彼の評論も、優れた現状分析にとどまっていると思います)
そして問題の本当の本質がどこにあるのか、気づいている人は少ない。
なぜなら結局は、わたしたちはみな、自分がいる環境を自明のことととしてとらえがちだからです。
たとえば、魚はおそらく、水の存在にほとんど気づいていないでしょうし、
わたしたちだって、空気の存在に気づくことなどまれです。
あまりにも当たり前に、そこにあるものだから。
今の世の中を、地球全体を覆っている空気に例えると、
わたしたちが毎日吸っている空気は、明らかに汚れています。
でも、生まれたときからその汚れた空気の中で暮らしてきたわたしたちは、空気が汚れていることに気づきません。
だって、それが当たり前だったからです。
仮に「実はこの空気汚れているのではないか」と気づいたしても、
「でも空気をきれいにするなんて途方もない作業、ぜったいに無理」とハナから諦めてしまいます。
問題があまりにも大きすぎて、わたしたち一人一人ができることなんて何もないように感じてしまうからです。
でも、つねきさんは違います。
つねきさんは、他の誰よりも、ものごとの本質中の本質を、はっきりと見据えている人です。
ちょっと想像してみてください。
わたしたちが、自分の努力が足りないせいだと考えて自分を責めてしまうような、
例えば貧困だったり、子どもの虐待だったり、ブラック企業だったり、過労死だったり、学歴差別だったり、膨大な数の自殺者だったり、女性の抑圧だったり、増え続ける精神疾患だったりの本当の本当の原因が、
私たち一人一人の努力不足ではなく、実は空気そのものの汚れだったとしたら、どうでしょう?
・・・ちょっとびっくりしませんか?
あまりにも「自己責任論」が跋扈しているこの世の中ですものね。
でも、つねきさんの主張は、まさにそこにあります。
つねきさんがこの世の問題の根源にあると指摘しているのは、現在の行き過ぎた金融資本主義のシステムです。
それこそが、空気の汚れの真の原因であると。
そして今の「財源がない」「政府の借金は国民一人あたり800万円」といった、政府やあらゆる大手マスコミが疑問なく受け入れている前提がそもそも、まったくの茶番であり嘘であることを本の中で解き明かしていきます。
彼の本は、どのページをめくっても本質的なことが書かれすぎていて、わたしは読みながら全ページ傍線だらけ、付箋だらけになっちゃったのですが、
彼が金融資本主義の根源的な問題について書いているこの部分を引用しておきます。
長いですが、ぜひお読みください。
資本主義とは本来、効率化と生産性拡大のための思想でした。すなわち、資本を集約し、少ない労力でたくさんのモノが作られれば、それが多くの人たちに行き渡り、労働時間も減り、人々が幸せになるという考え方だったわけです。この場合、集約すべき資本とは、土地や資源、労働力などの実体リソースのことです。それがモノやサービスを作る元なのですから、これは当たり前の話です。
ところが、我々はいつの間にか、「資本=お金」だと思い込むようになりました。それは恐らく、あらゆるものを市場化して、お金で買えるようにしたせいでしょう。お金で全てが買えるなら、お金で持っておく方が何かと好都合です。世界中の中央銀行がインフレを防止し、お金の価値が下がらないように尽力してくれますし、世界中の金融市場を瞬時に移動させ、マネーゲームで増やすこともできます。
しかし、問題はそこです。お金は単なる数字で、借金と表裏一体で無限に増やすことができますが(藤原注:この仕組みについては本書の前半で詳しく書かれています)、実体リソースはそうはいきません。地球は一つしかなく、土地も資源も人間も有限だからです。この矛盾を放置すると、やがて「無限に増えるお金による有限な実体リソースの奪い合い」が起きます。なぜなら、お金だけ増えても意味がなく、それを意味ある実体に換えようとするのは道理だからです。
今や世界には、世界GDPを遥かに超える額の金融資産があります。世界銀行によると2016年の世界GDPは約76兆ドル。これに対し、クレディ・スイス銀行のグローバル・ウェルネス・リポートによると、個人金融資産だけでも280兆ドルに達し、それだけで実体経済の4倍近くに達します。そしてこれには法人やデリバティブ(金融工学商品)の金融資産は含みません。ちなみにデリバティブ取引の未決済の額面総額は、BIS(注:国際決済銀行)の2017年のレポートによると約542兆ドルもあります。もちろん、それはあくまでも額面総額で、現在の市場評価額(資産額)は同レポートにもある通り約13兆ドルですが、デリバティブは市場が大きく動けば急激に価値やリスクが増大しますので、その評価も便宜的なものでしかありません。いずれにしても、これが意味することは、いかにも胡散臭い方法で、お金(数字)だけを金融市場で膨らませ、実体の裏付けのない膨大な資産が世界中の帳簿に書き込まれているということです。そしてそれは数字という概念でしかないのに、いかにもあるかのような幻想で人々を欺いている。そのことは恐らく、やっている本人たちが一番よくわかっていて、だからこそ彼らは、実体リソースを買うのです。土地や資源の権利、知的所有権、それらを持つ会社の株式、民営化されたインフラ、CO2排出権など。それらを膨大に膨れたお金を背景に買うわけですから、大抵の人は太刀打ちできません。政府ですら借金漬けにされた挙句、国民の血税で築き上げたインフラや国債までも売り渡さざるを得なくなります。
要するにこれは、「所有と支配、そして搾取の構造」なのです。資本主義という、所有者が全ての権利を持つ仕組み において、今の金融システムを使って膨大なバブルマネーを作り出し、実体リソースを買い上げる。そうすれば、それらを使って生きる全ての人たちを支配し、搾取し続けることができます。本来であれば、実体経済の4倍のお金など無意味です。4分の3は、それで交換する実体価値そのものがない数字に過ぎないわけですから。しかしそれが発覚すると、お金の価値が4分の1になってしまうので、そうなる前に、それを着々と実物資産に換えていく。これまでもそうでしたし、今も同じことが起きています。例えば種子法の廃止や水道民営化など、正にこの脈絡で理解できます。
もちろん、これは日本だけの話ではありません。世界中が甚大な金融資本に所有され、支配され、搾取されています。そして恐ろしいことに、これには際限がありません。概念でしかない数字は、プラスもマイナスも無限に、しかも複利で加速して大きくなり続けるからです。でなければ、世界で最も裕福な8人が、世界で最も貧しい80億人と同等の資産を持つなどということが起こるでしょうか?数字で考えると単なるゼロの数の差かもしれませんが、たった8人と地球の半分の人口が同じ広さの土地に住むことを想像すれば、その異常さがよくわかります。この仕組みにはもはや何の正当性もありません。かつては、それが拡大生産を生み、多くの人の幸せに寄与していたかもしれませんが、そんな時代は少なくとも日本ではとっくに終わっています。ですから、日本がこれからやるべき国家経営とは、ここ数十年の金融資本主義的な流れに世界に先駆けて異を唱え、それを押し戻す戦いになります。我々は社会の設計思想から根本的に練り直し、それを具現化して世界に範を示す責任があるのです。
(強調は藤原)
問題を解決しようと思えば、まず問題の本質を正確につかむ必要があります。
そしてここからが、つねきさんが唯一無二である所以ですが、
彼は、問題の本質をがっちりとらえた上で、それに対する解決策もすべて示してくれているのです。
つねきさんの解決策は壮大ですが、
彼はは理想主義者でも夢想家でもありません。
ものすごく現実を見据えている人です。
つねきさんはこう言います。
よく私が主張することが非現実的と言う人がいますが、現実的とは、今との変化量が少ないことではありません。今起きていることをありのままに捉え、それに対応することです。その意味で、すでに今の金融システムが機能不全に陥り、地球全体が軋みを上げている状況に対応することこそ現実的で、それが非現実的に思えるということは、それだけ歪みが大きく、大きな変化を急ぎ要するということです。
彼の示している解決策は、本当の意味で現実に即しているものばかりです。
そして、解決策を示すだけではなく、それに至る道筋まで述べてくれている。
(移行期間をどうするかなど)
彼の示す解決策は、例えば次のようなものです。
政府通貨の発行(政府の借金を政府通貨で返す)
お金を配る
マインドセットを変える
仕事の概念を変える
インフレを起こす
実質金利をゼロまたはマイナスにする
お金の海外への逃げ道を防ぐため、株式やFXなどの投機売却益に対する課税を100%に近くする
社会保障を根本から考え直す(ベーシックインカムを含む)
日本の産業構造を転換する
土地を公有化する
現実を直視する
・・などなど。
それそれの具体案については、ぜひ本書をお読みください。
わたしは、彼の示す解決策があまりに現実的で具体性があるので、本当に希望が持てました。
この世に、「大きすぎて解決できない問題なんてない」って、心のそこから思えたからです。
そして彼のすごいところは、
これらの解決策を現実にするために最も大切なことが、我々の意識の変化であることを、正確に見抜いていることです。
人々の意識を変える。
これは本当に、とてつもない作業です。
そのために、彼は全国を回って、1回4時間に及ぶお話会を開いています。
それは、彼の話を直接聞くことで、人々の意識にシフトが起こることを知っているからだと思います。
もちろん、1回のお話会の参加者はせいぜい20人〜100人くらいなので、影響力は微々たるものかもしれません。
でも、20人のお話会を100回やれば、2000人に届く。
山本太郎さんもそうですが、
そういう作業が地道にできるのは、
自分と、人間と、社会に対する基本的な信頼と楽観性があるからだと思います。
そこがわたしはすごいと思う。
普通なら、政治家のバッジさえつけたことがない人が、こんなタイトルの本をつけるのはかなり勇気がいることだと思います。
だって、嘲笑される可能性の方が高いから。
でも彼は、自分が周りからどう見られるかということを、全く気にしていません。
それが本当に素晴らしいです。
きっと、本当の意味で自己肯定感が高い人なのでしょう。
(わたしにはとても真似できません・・・。真似できない自分も100%許してはいますが。人はみんな違いますからね)
つねきさんは、コロナ騒動がピークを迎えつつあった今年3月、FBページでこんな投稿をしていました。
長いけれど、彼の真髄が現れている文章なので、こちらもぜひお読みください。
今回の新型ウィルスの問題、命に関わる問題であるだけに、私も本当に色々考えた。政治家としてどうすべきか、人間としてどうあるべきか。その結果、今考えていること、これからやろうとすることについて書いておきたい。もちろん、私がこれから書くことに正しさがあるとは思っていない。今の日本を生きる、いやこの世界を生きる一人の人間として、自分がどう生きたいかを記しただけのものである。ただ、今、同じように悩んでいる多くの人の参考になるかもしれないと思ってシェアしたいと思う。皆さんもそれぞれ、自分の選択をしてくれると嬉しい。
(中略)
我々が考える指針を失っているように見えるもう一つの理由は、我々自身が自ら考え、自らの思想、哲学を持たなくなったせいではないかと思う。それは本来、それぞれが持っていて良いものだ。そして違っていても良い。それはそれぞれの生き方、あり方であるのだから。ところが、強い同調圧力が常に働き、人と違って叩かれることを多くの人が恐れ、自分の考えを持つこと自体が奨励されないような雰囲気がある。だから、それがあっても言いにくい、ましてやそれに従って生きるのが難しくなっているように見える。特に今回のような、人の生き死にに関わるようなことだからこそ、それぞれの生き方、死に方から考えて決めるのが本来なのに、その軸がないからぐらぐらと情報や雰囲気に左右されているのではないか。今こそその軸をもう一度しっかりと持って、それに従って行動した方が良いと思う。
私も今回、自分の生き方、死に方を改めてよく考えてみた。自分は何のために今ここにいるのか。何のために政治家をやろうとしているのか。そして出した結論は、私は改めて自由と自立のために闘うということだ。かねてより、私の最も大事な政治信条は「個人の心の自由」と公言している。その言葉通り、私ぐらい自由で勝手な人間は日本には少ない(世界標準で見ると、多分平均以下だ)。もちろん、本人は全く勝手だとは思っていない。人のことは考えているし、愛している。ただ、その人が感じることはその人の問題で、その人が処理すべきことと切り離しているだけだ。その人にとってみれば、言うなれば私は吹いている風と同程度の存在で、コントロール不能である。相手が人間だからコントロールできると思いがちだが、そうではない。自分以外は風も人間も一緒だ。まあ勿論、これはあくまでの私の考えで、理解されにくいかもしれないが、要するにそんな人間が、この同調圧力のやたら強い日本で政治家をやろうとすることの意味は何なのか、ということだ。
まず一つには、私が嫌いな人とっては朗報だ。当選する確率はとても低い(笑)。だってマイナーなのだから。しかし、それでも意味はある。もしかしたら、時代の大きな変わり目に、そのマイナーがメジャーに変わる瞬間が訪れるかもしれない。その時にそのマイナーが旗を掲げ続けていなければ、人は集まって来られない。そしてその時代の変わり目はもうすぐそこまで来ていると私は感じている。その中でのこのコロナ騒ぎ。私は我々一人一人の生き方、死に方が改めて問われているのだと思う。自由とは何か、生きることとは何か、何を大切にするか、など。それは正しい正しくないではなく、個々人の選択の問題だ。
今、我々、どんな選択をして生きているだろう?制度的には自由主義社会だ。つまり、基本的に何をしても自由ということ。ただ、考えの違う多数の人が仲良く共存するためには、最低限、やって良いことと悪いことの線を引く必要がある。それが法律であり、それ以外の線を引いてはならないとするのが法治主義だ。にも関わらず、我々は結構違う線を引いていたりする。それが、空気とか普通とか当たり前という、言わば数を背景にした常識の線。多くの人はそれを「当たり前」と思っているかも知れないが、マイナーな感覚や価値観の持ち主、常識におもねない人々は叩かれ、批判され、社会的に追い込まれて行く。これは社会的リンチに他ならない。芸能人のスキャンダルなどでよく見る光景だ。法律に違反しなければ何でもいいのに、違反したとしても法律で罰せばいいのに。
そんな中で、やはり私が政治家をやることの意味は、選ばれるために多数の意見におもねることではなく、恐らくマイナーな自分自身であり続けて、必要とされた時に存分に仕事をすることだろうと思う。だから、批判は気にしないし、政治生命も気にしない。必要とされなければ仕事にならないのが政治家だし、自分以外の誰かになってバッジをつけても仕事にならない。
(中略)
もう一つ命に関して付け加えておくと、極論に聞こえるかもしれないが、我々の命は常に危険に晒されている。死が遠ざかり過ぎて意識しづらくなっているかもしれないが、死は常にそこにある。それを我々は9年前の今日、遠ざけたはずの死が一気に津波と共に押し寄せた日、強烈に意識したはずではなかったのか?あの時多くの人は、いつ終わるかわからない人生、今を大切に生きようと思ったはずだ。今後、我々を更に多くの困難が襲う可能性がある。もっと致死性や感染力の強いウィルスや、気候変動による災害や水不足、食糧不足など。その結果、もしかしたら我々の寿命は短期的なピークにあって、これから人類全体で死亡率が増すのかもしれない。その時に、もし我々がただ不安と恐怖にかられ、ひたすら命を延ばすことのために時間を使っていては、何のために生きているのかわからなくならないだろうか?勿論これは私の考え方であり、それぞれの考えがあって良い。それぞれの生き方、死に方の話だから。でもだからこそ、考えの違うそれぞれが、自分の思う生き方、死に方を全うできる社会が望ましい。それには当然、その自由がなければならない。
だが、今の政権与党は、自由に対して非常に抑制的だ。それは彼らの憲法改正案を見るとよくわかる。彼らは現行の憲法13条『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由および幸福の追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』を次のように変えようとしている。『全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。』。ポイントは「個人」が「人」に変わり、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に変わることだ。「個人」なら、どんなに人と違っていても、その人自身が尊重されるが、「個」が取れて「人」と言うと、より一般的なニュアンスが加わる。場合によっては一般的ではない人の自由は制限される可能性がある。また、「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」は全く違う概念だ。前者は他者の人権のことであり、相手はあくまでも他の個人だ。争う場合は同じ市民が相手だが、後者には顔がない。公益及び公の秩序に反するとお上が判断すれば、争う相手は公権力だ。「お上がならんと言ったらならん」、江戸時代に逆戻りだ。
そんな政権与党がいる中での今回のコロナウィルス騒ぎ、一斉休校、自粛要請、そして恐らく辻褄合わせの特措法改正。それがさらに自粛要請に法的根拠を与え、この先どうなるかは容易に想像できる。お決まりの強烈な同調圧力が日本中を覆い、多くの人たちが思考停止、または批判を恐れて縮こまり、自粛一色の灰色の世の中。私はやはり、その中で自分の選択をしようと思う。まずそうしても良いんだということを行動で示す。叩かれるだろうが、こんな状況だからこそ、誰も言い出さないことを言い、やらないことをやる「大穴」政治家が必要かもしれないと思っている。本当にそうかどうかは、皆さんが自分で考えて決めれば良いし、そうでなければ、私のようなちっぽけな存在はただ消えるだけ。全ては一人ひとりの選択なのだ。正しい正しくないではなく、多くの人の選択が時代を動かし、そこに良いも悪いもない。
私は、今起きつつある変化とは、そういうことなのかもしれないと思っている。あるべき方向性とか、正しい方向へ進むということではなく、状態が変わる。つまり、今まで一部の人が権力を握り、多くの人がそれに従っていた状態から、世界中の全ての人が自分で考え、自分で選択し、全ての人がそれを容認し合う自由と自立の状態へ。結局、今までのやり方では方向性がおかしくなったから新しい方向性を探っているのだが、もしかしたら我々はその方向性に囚われ過ぎ、それでまた他人を支配しようとして失敗していて、本当は方向を考えるのではなく、お互いの自由を尊重し合うことを考えるべきなのではないか、ということだ。そして本当にそうなった時は、全ての個々人が満たされ、調和し、平和に共存するという考え方。勿論それも個々人の考えで良いが、少なくとも私が伝えたいのは、「あなたが人をコントロールしようとしない限り、自ら何をしようが完全に自由」ということで、それを伝えに今後も全国を回り続けようと思う。
(強調は藤原)
ということで、つねきさんは、どんなに裸の王様視されようとも、どんなに叩かれようとも、確固たる信念を持って政治活動をされています。
彼のような人が旗を上げ続けていてくれることで、わたしはこの、絶望と不安と同調圧力が支配する、一見どうしようもなく思える日本でまだ生き続けていくことに希望を見いだせるのです。
そんなつねきさん、次の総選挙に、神奈川4区から立候補されます。
選挙区にお住まいのみなさん、ぜひこの本を読んでください。
そして彼の話を実際に聴きに行ってください。
目からうろこがぼろぼろと落ち、未来に希望が持てること請け合いです。
つねきさん、本当に気さくで素敵な方です。
(8月10日、北海道伊達市での講演会で、娘にせがまれて気軽にセルフィーを撮ってくれたつねきさん・・編集下手でスミマセン)
絶対に、今よりも良い世の中になるはずです。
藤原ちえこのセラピーはこちら
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