前回の記事の続きです。
妊娠8週目に、稽留流産と診断された私。
胎内記憶で有名な池川明先生の本に、流産したお母さんの、
「人生でこんなに悲しいことがあるとは思わなかった」という言葉が出ていますが、私もまさに同じ心境でした。
今でこそ私は、妊娠初期の流産確率は20%もあり、しかもその確率は母体の年齢に比例して上昇することも知っています。
でも流産は大っぴらに語られるものではないので、当時は自分の周辺で流産した人がいるなど聞いたことがなかったし、(それ、変えていきたいです。もっと流産がオープンに語られ、流産した人がもっとサポートが得られる世の中になるよう、私にできることをやっていきます→→この記事を書いてるのもその一環です^ ^)
まさかそんなことが自分の身に降りかかるとは、夢にも思っていませんでした。
今思っても残念なことですが、
当時の私には、流産したことを「ひっそりと悲しむ」以外の選択肢はありませんでした。
事情を知らない周囲の人にはもちろん言えませんでしたし、
妊娠をすでに打ち明けていた人たちにも(ほら、まさか流産するとは思ってもいなかったので・・・^^;)、一斉メールで簡単な報告をしただけで、直接会ってやりとりすることもありませんでした。
相手も反応に困るだろうと思ったし、そもそも直接伝えられるような気持ちの余裕は全くなかったです。
当時の私は夫にべったり依存していて、辛いことがあれば何でも彼に打ち明けていましたが、
なぜか流産だけは、彼と一緒に悲しむ気持ちにもなれませんでした。
彼も悲しんでいることが分かっていたので、余計にそのことを持ち出せなかったというのもあります。
夫がいない時や寝た後にこっそり自分の瞑想コーナーに行って座り、泣く・・・という日々の繰り返しでした。
私がこのブログを書いている今この瞬間にも、当時の私と同じように、一人でひっそり泣いている女性がたくさんいると思います。
その人たちに、偶然この記事が目に触れることを願っています。
あなたは、決して一人じゃありませんから。
私の気持ちは、いつでもあなたと一緒にいます。
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この時期はよほど辛かったとみえて、私は一切日記などの記録を残していません。
ただ手帳に受診の日などが記されているだけです。
でも、その事務的な記録を見ているだけで、当時のつらさがありありとよみがえってきました。
稽留流産と診断されたのが、6月の第3週。
実際に流産したのが、7月の第4週。
・・何と私は、死んだ赤ちゃんを5週間もお腹の中に入れていたのです・・・( ゚д゚)。
自分で選んだこととはいえ、いつ出てくるか分からない赤ちゃんと1ヶ月以上一緒にいるのは、ものすごくつらかったです。
赤ちゃんが死んでしまった悲しさ、
その死んだ赤ちゃんを体内に抱えていることのしんどさ、
外出している時や仕事中に流産が始まったら、どうしよう・・という恐怖、
いろんなものがごちゃ混ぜになった5週間でした。
・・・・皆さん、決してマネしないようにしてください。
今の私が当時の自分のそばにいたら、絶対自分にそんなことさせず、ホメオパシーとか鍼とか、助けになりそうな場所に全部連れて行って、早く自然流産が起こるように全力でサポートしたと思います。
何であんなしんどいことやってたんでしょうね私・・。
それくらい、何の判断もできなかったってことなんでしょうが。
そして、結論から言うと、私が恐れていたようなことは起こらず、
赤ちゃんは、自宅でくつろいでいた日曜日の夜に外に出てきてくれました。
お医者様が言った通り、生理痛の3倍くらいの痛さでした。
(これは個人差があるみたいです)
ただ予想外だったのは、一緒にものすごい吐き気にも襲われたことです。
この、出血と同時に嘔吐・・・・というのは、その後の私の自然流産のパターンになりました。
・・・はい。この流産は、ほんの始まりに過ぎず、私はこの後、何度も流産を繰り返すことになったのです。
続く。
娘が最近描いてくれた絵です。
「ママが石鹸でお皿を洗っているところ」だそうです。
ママの耳が犬みたいなことはさておき(爆)、とても素敵な絵だと思いませんか?(親バカ….o(^▽^)o)。
当時の私に教えてあげたい。
12年後、私にはこんな幸せが待っているんだってね♡
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