またもや青天の霹靂〜娘を我が家に迎えるまで その9


前回の記事の続きです。

いのちに対する畏敬の念〜娘を我が家に迎えるまで その8

最初の、不意に襲った嵐のような妊娠・流産の後、
私は日本での基盤づくりに忙しく、
いつしか子どものことは、ほとんど意識に上らないようになっていました。

 

セラピールームの運営も徐々に軌道に乗り、
ワークショップも何回か開き(帰国直後は張り切ってましたのでね 笑)、
本の翻訳出版も決まり、
日本の心理士試験にも合格し、
スクールカウンセラーとして働き始め・・・と、
ひたすら仕事に邁進する毎日を送っていました。

 

とても楽しかったです。

 

米国ではほとんどの滞在期間中、学生ビザしか持っておらず、
インターン先を探していた時も就労ビザをサポートしてくれる仕事先がなかなか見つからず、結局は帰国することになったので、
堂々と合法的に、何の制限もなく働けるというだけでものすごく幸せでした。

 

そんなわけで、仕事を3−4種類掛け持ちし、
原稿も書き、
東京で定期的にDVシェルターの研究プロジェクトにも招かれ、
おまけに札幌のクラシック雑誌の編集にボランティアで関わったりもして、多忙な日々でした。

 

夫に「1日が48時間欲しい!」と豪語していたほどです^^;。

 

気づいたら、徐々に体調が悪くなっていました。

 

もともと頭痛持ちでしたが、生理前に決まってすごい頭痛がするようになり、
ある時期から、左耳に変な耳鳴りもするようになりました。

 

耳鼻科を受診し、聴力検査をしたところ、左耳の聴こえがかなり悪くなっていることが分かりました。

ただ、聴力は徐々に徐々に低下していたようで、実際に聴力検査をするまで、私には何の自覚もありませんでした。

振り返れば、それまではいつも受話器を左耳に当てて電話をかけていて、
よく「すみません、お電話が遠いんですが」などと相手に言っていましたが、
よもやそれが電話機ではなく自分の耳だとは全く思っていなかったほどです(⌒-⌒; )。
(聴力検査の結果が出た後に受話器を右耳に当ててみて、あまりの聴こえの良さに驚きました 笑)

 

その時のお医者さんの診断は「突発性難聴」。
ステロイドを山ほど処方されました。

でも私としては、全く「突発的」な難聴ではなかったので、診断名が全然ピンと来ず、
ステロイドなど飲みたくなかったのもあり、薬は全部捨ててしまいました。
(私の直感が正しかったことは、後になって判明しました。医者って簡単に誤診するものなんだなあと、今思えばぞっとしますね)

 

その後しばらくして、とうとう、あまりの頭痛で起き上がれなくなってしまい、
観念して、脳神経外科に行きました。

看護師さんに症状を伝えると、まず神経内科のドクターの診察を受け、
「多分何でもないとは思いますが、念のため検査しておきましょう」と言われ、MRIの検査を受けました。

 

検査結果を聞くために待合室で待っていましたが、待てど暮らせど私の名前が呼ばれません。

診療時間が過ぎ、他にほとんど患者さんがいなくなった時、ようやく呼ばれて診察室に入ると、
待っていたのは、先ほどとは違う、脳神経外科の先生でした。

 

「脳に腫瘍がありますね」

 

そう言われて、MRIの画像を見ると、
そこには、ものすごく大きな腫瘍が写っていました。
(後で知ったのですが、サイズは3cm×4cm×3.5cmでした。ちょっとしたおまんじゅう並みですね(・_・;)

場所は左耳の近くで、耳の聴こえにくさも、頭痛も、全部この腫瘍が原因だったのです。

 

さすがに頭が真っ白になった私は、急いで待合室にいた夫を呼び、彼と一緒に、ドクターの説明を聴きました。

ドクター曰く、
「もうすこし小さければ、放射線をかけることもできますが、ここまで大きいと、手術するしかないです」

手術などぜんぜんしたくなかった私は、「手術しないとどうなるんですか?」と聞いてみました。

ドクターは淡々と、
「腫瘍が大きくなって、あちこちの神経を圧迫するようになって、
最後には死にますねえ
と言いました。

 

続く。