「する」ことと、「ある」こと


皆様、

お元気でお過ごしでしょうか。

さて私、最近、遅ればせながら、堀江貴文さんの「ゼロ」を読みました。

この本は、出版当時、いろいろなブログやツイッターで興奮気味に紹介されていたので、一度は読みたいと思っていたのですが(図書館で順番待ちをしていたら、こんなに遅くなってしまいました(笑)。それだけ人気のある本だったということですね)、
ほぼ、予想通りの内容でした。

つまり、「すること」についての本だったということです。

彼の本にかぎらず、世の中でもてはやされているのは、
「こうすれば成功する」
「こうすれば幸せになれる」
「こうすれば恋人が見つかる」
「こうすれば鬱が直る」
という、「To do」のための本(あるいはメディア全般)です。

そういう本の書評を読んだり、新聞広告を見たりするたびに、
ちょっと残念な気持ちになります。

なぜなら、そういう、ハウツー本を読んで、その通りに生きようとするのは、結果的に幸せへの遠回りになるからです。
(はい、経験者です。学生時代、千葉敦子さんの「ニュー・ウーマン」をバイブルにしていました 笑)

だって、本当の幸せは、何かをした結果手に入るものではなく、今この瞬間に「ある」ことによってしか生まれないものですから。

堀江さんの本で、私が唯一興味を惹かれたのが、
「のんびりするということができず、マグロのように、働くことをやめたら死んでしまうかもしれない」というほど、常に行動し続ける彼の生き方の背後にあるのが、「死の恐怖」だというお話でした。

彼の言葉を、そのまま引用しますと、
「僕は死を忘れるために働き、死を忘れるために全力疾走し、死を打ち消すために生を充実させていた」
のだそうです。
わざわざ太字で強調して書いてあったので、彼にとっては非常に大きなことなのでしょうね。

それが彼の人生の根底にある恐怖で、すべての行動の原動力なのだとすれば、
それを紛らわすために常に動くのではなく、その恐怖ときちんと向き合ってあげた方がずっと楽に生きられるのに・・・と思うのは、私がセラピストだからでしょうかね(笑)。

前回のブログに、ちょうど死について書いたところでしたが(シンクロしてますね)、
私はもちろん、死がその人の存在の終わりだとはまったく考えていません。
死は単に、肉体を脱ぐというだけのことです。
だから死者との関係だって、時間とともに変わっていくし、
死後に、その人の存在がこの世でさらに輝くことだってある。
(もちろん、逆もありますが 爆)

ちょっと話がずれますが、私が理解に苦しむのが、死んだ途端に、故人を批判していた周りの人が急にその人を「いい人」扱いし出すことです。
それを見るたびに、「なんで? 死んだだけじゃん」と思ってしまう私です(笑)。
肉体のあるなしだけで、その人の性格が極端に変わるとは私には思えないのですが・・・。
それに、その人に素敵なところがあったとすれば、生前からそれに気づき、
その人が生きているうちに、ちゃんと伝えてあげればいいのにな〜と思います。

……話がそれました。

死への恐怖から、生を充実させようとする。

それは一見、理にかなったことのように思えますが、
根底に恐怖がある生き方というのは、やっぱりどこか、つらいのではないかと思います。
今ここに「ある」というのは、立ち止まり、自分の抱えている恐怖も含め、すべてを抱き取るようなそんなイメージです。
それができたとき、今まで最大の恐怖だと思っていたものが、実は自分の幸せの最高の鍵だった・・・・ということが、細胞レベルで実感できるはずです。
(つい昨日も、私はセッションでそんな感動的な場面に立ち会いました。この瞬間があるから、私はこの仕事をしているんだなあとつくづく思います)

ゆっくり座って、ただのんびり、生きていることの幸せを噛み締める、
そんな日が、いつかホリエモンに訪れますように。

ほぼ、「あること」にだけ集中して生きている、我が家の一員(笑)。