子どもが欲しいかどうか、どうしても決められなかった私。〜娘を我が家に迎えるまで その3


今回からいよいよ、
娘を我が家に迎えるまでの長い長い個人的なプロセスを振り返ってみたいと思います。
よろしければどうぞ、おつきあいください。

 

実を言うと私は、「子どもが好きで好きでたまらない」というタイプの人間では全然ありません(^^;;。

結婚は26歳と比較的早かったのですが、
結婚当初は入社3年目の駆け出し記者であり、
昼夜問わず仕事していたので、子作りなど全く考えられませんでした。

 

おまけに、新婚3ヶ月で札幌から山形に転勤になりました。

 

いきなりの単身赴任です。

 

でもこれも、キャリア志向が強かった私が、当時の上司に、
「結婚したからといって、転勤を免除するなどの配慮は一切無用です」
と申し入れたからです。

 

元々それほど器用ではなく、すぐにキャパオーバーになってしまう私が、
子育てと仕事の両立ができるとはとても思えませんでした。

 

そして、もうひとつ、子どもを持つことを躊躇していた理由がありました。
(というか、こちらがメインの理由でした)

 

私は小さい時から、母親との関係が最悪でした。

 

母親は躾と称して日頃から体罰を多用する人で、
幼い頃から私はしょっちゅう叩かれ、押し入れに閉じ込められ、家から追い出されていました。

 

言葉で批判されることも多く、
私は子どもの頃、母親から褒められた記憶がありません。

 

私は3人姉弟の一番上だったこともあり、
成長する過程で、母親をずいぶんと自分の内側に取り込んできてしまったという自覚がありました。

 

友達と話していても、興奮してくると相手をついバンバン叩いちゃって嫌がられたりとか(爆)、
妹や弟にも、ケンカするとすぐ手が出てしまっていました。

 

・・・・はあ。こういう話を書くのはやはり緊張しますね(苦笑)。

 

まあ、こういう体験があるからこそ、私は今の仕事をしているんだとも言えますが。

 

そういう環境で育ったので、
自分が母親になったら絶対に同じことを子どもに対してやってしまうに違いないという恐怖は、
常に私の中にありました。

 

その恐怖が決定的になったのは、新聞記者として山形に赴任していた時です。

 

当時私は、取材先の庭に迷い込んできた子猫を引き取り、
ペット禁止のマンションでこっそり飼っていたのですが、
(大家さんごめんなさい・・・もう時効なので許してください 笑)

 

ある時、些細なことから、その猫に対する怒りが爆発して、
どうにも止められなくなったのです。

 

逃げる猫を部屋じゅう追いかけ回して、5分くらい蹴飛ばし続けました。

 

自分で自分を抑えることが、どうしてもできませんでした。

 

 

・・・ふと我に返った時、心から思いました。

「あー、これが自分の子どもじゃなくてよかった」(ごめんね、猫!)

 

こんな私でしたから、もちろん子どもを育てる自信など全くなかったのです。

 

その一方で、「自分は一生、子どもなしで生きていく」ときっぱり決意することもできませんでした。

 

子どもの本が大好きで、児童文学者を夢見ていたこともあるし、
学生時代からシュタイナー教育など、オルタナティブな教育に興味がありました。
新聞社でも教育面を担当していたし、
当時次々に生まれていた、友人の子どもたちに会いに行くのは大好きでした。

 

そんな風に、子どもについて考えるのを先延ばしにしていた頃のことです。

 

山形の取材先で、あるおじさんと知り合いました。

 

その人は、某政党の事務局で働いている一見普通のおじさんでしたが、
何かの飲み会の席でじっくり話してみると、かなり面白い人でした。

 

お祖母さんがロシア人のちょっとサイキックな人だったそうで、
自分もその血を受け継いで、いろいろなことが分かるんだそうです。

 

おまけに、普段は政党職員として切った張ったのドロドロな政争の只中にいるくせに、
実はバイオリン製作の修行をしていたりと、音楽が大好きな私とすごく話が合いました。
私が当時住んでいた場所なども、こちらが言う前に当てられました。
(余談ですが、サイキック能力のせいか、選挙での彼の票読みはものすごく正確だったです。
お陰で新聞記者としてはすごく助かりました 笑)

 

飲みながら彼の話を聞いているとき、なぜか私は彼にこう尋ねていました。

「あたし、子ども産みますかね?」

おじさんは、ちょっと考えてから答えました。

「年齢的にギリギリになってから、駆け込みで一人産むよ

 

・・・。

 

それを聞いて、何だかすごくほっとしたのを覚えています。

 

そうか。あたし、そのうち一人は子ども産むんだ。

 

ギリギリの高齢出産で。

 

じゃあそれまでは、思う存分好きなことをやろう。

 

 

今思えば、そのおじさんにそう言われただけで、何の根拠があるわけでもなかったのに(笑)、
当時の私は、なぜか宇宙からお墨付きをもらったような気分でいたのです。

 

 

自分でも全く予想外の展開だったのですが、
そのわずか1年後、山形から東京に転勤になっていた私はあっさり仕事を辞め、
(バブル入社組はせっかく就職した会社に対する執着が希薄だなあと改めて思います。
私の同期、結構辞めた人多かったです 笑)
長年の夢だった留学を叶えました。

 

最初は英国に1年、その後米国に移って6年。

 

夫を日本に置いての留学だったので、
もちろん子どものことは引き続き、全然現実味がなかったです。

 

でも英国ではシュタイナー教育を学んでいたし、
米国でもシュタイナー幼稚園を手伝ったり、
ホームレスの子どもたちと働いたり、
子供の存在は常に身近にありました。

 

将来もし娘が生まれたら手渡そうと、
ウォルドーフ人形のワークショップに通って人形を作ったり、
アメリカのシュタイナー学校は高いけれど、
メキシコだったら学費的に通わせられるかも!などと考え、
わざわざメキシコまで学校を見に行ったりもしました。
(我ながら一体何をやってたんでしょうね・・・笑)

 

その一方で、山形で猫を蹴っ飛ばした記憶は自分の中に鮮明にあり、
「母親になる前にまず自分を癒そう」と強く決心もしていました。

 

幸い、自分の癒しのためにはこれ以上望めないほどの環境にいました。

 

なんせ、世界一素晴らしい、スピリチュアルな心理系大学院に通ってましたからね(笑)。
(当時の私がどれほどインテンシブに自分の癒しに取り組んでいたかは、
こちらこちらに書いたのでよろしければどうぞお読みください。
同じことをやる自信は、もう今の私にはありません・・・笑)

 

そんな英国、米国での修行を経て最終的に帰国した時には、私は37歳になっていましたが
、なぜか自分の中でその「ギリギリ感」は全く湧いてきませんでした。

 

今思えば、37歳など、すでに立派な高齢出産の年だったのですがね。

 

そして帰国して2ヶ月後、青天の霹靂が起きました。

 

・・・続く。

連休だった週末、千歳の友人の農家に遊びに行きました。農園の向かいが、季節外れのひまわり畑になっていました!

 

まさに花盛りのピークでした。緑肥用だそうです。間もなく大地に鋤き込まれてしまうそう。もったいなーい。
しかも、こんなにキレイなのに、見にきている人誰もいない(笑)。

 

あら、最後の写真は余計でしたわね。すみません・・・おほほほ。

 

 

藤原ちえこのセラピーはこちら

メルマガ登録はこちらから