あきらめようともがく〜娘を我が家に迎えるまで その16


前回の記事の続きです。

どう考えても、絆は深い〜娘を我が家に迎えるまで その15

流産を繰り返していた時期、心理面やスピリチュアルな面でのサポートはさまざま受けていた私ですが、
不妊治療そのものに取り組むことに対する抵抗感はどうしてもぬぐえませんでした。

以前も書きましたが、やはり妊娠・出産は神の領域だと感じていたので。

それに、妊娠自体はわりと簡単にできていたので、どこか自分の身体を過信していた部分もありました。
(生理周期も時計のように正確だったし、婦人科系のトラブルも全然ありませんでした)

3度目の流産の後に一度、札幌で不育症治療の看板を掲げているクリニックを受診したことがあります。

でもそこで提案された治療が体外受精だったのと、ドクターがあまり温かみを感じられない人だったので、すぐに通うのをやめてしまいました。

ところが、4回流産した後は妊娠自体が成立しなくなり、
さんざん躊躇していた私も、かなり精神的、時間的に追い詰められてきました。

 

この、生物時計と追っかけっこするような感覚は、不妊に悩む女性であれば誰もが感じたことがあるのではないかと思います。

ようやく決心し、重い腰を上げて専門のクリニックの門を叩いたのは、4回目の流産の後。大台に乗ってからすでに数年が経っていました。

 

・・・腰、重すぎましたね(爆)。

 

受診したのは、札幌で一番有名な不妊治療の専門クリニックでしたが、
最初の問診の時、ドクターにあっさり言われました。
「あなたの年齢と流産回数を考えると、妊娠できる可能性は99パーセントないです

 

・・・・。

 

はっきりそう言ってくれたお医者さんには感謝すべきだったというのは、今なら分かります。

不妊治療は女性の心身に多大な負担をかけるし、結果が出ない場合、治療すればするほど出口の見えないトンネルにはまり込むようなものだということは、多くの不妊治療経験者が語っていることです。

そもそも不妊治療に抵抗があり、流産後の掻爬手術すらしなかった私がそんなストレスに耐えられたとはとても思えません。

 

そして、今だからわかるのですが、
ドクターのその一言で金縛りにあったように動けなくなってしまった私には、おそらく自分で産むというシナリオが元々今生での計画にはなかったんだと思います。

医者がなんと言おうが、奇跡を信じ、1パーセントの可能性に賭けて治療をする人だっているわけですからね。

 

これほど私が不妊治療に躊躇があったのも、
ぜんぜん子どもが欲しくなかったのに、突然スイッチが入って取り憑かれたのも、すべては意味があることだったんだと今なら分かります。

 

ですが、当時はもちろん、ドクターにそう言われて、奈落の底に突き落とされた気分でした。

当時の私には、まだ子どもをもらうという選択肢が全く考えられなかったので、妊娠できない=子どものいない人生をあゆむということだったからです。
・・・あゆむも何も、すでに40年以上、立派に子どもなしで生きてきたんですけどね^^;。

 

それからは、自分が妊娠・出産できないという事実をなんとか受け入れようともがき苦しむ日々でした。

 

不妊治療で子どもを授からなかった米国人女性が書いた本を読んだり、
「子どものいない人生」で検索して、同じ境遇の女性のコメントを山ほどチェックしたり、
何より、夜になるとセラピールームにこもって(当時は自宅とオフィスが一緒でした)瞑想ばかりしていました。

その頃は毎晩、セラピールームでじっと自分の荒れ狂う感情と向き合い、そのまま疲れてソファに横になり、気づいたら朝・・・というパターンを繰り返していました。

数ヶ月間、自分のベッドで寝た記憶がほとんどありません(笑)。

 

振り返れば、私はそれまで、本当に恵まれた人生を送ってきていて、
自分が望んだことで、叶わなかったことは一つもありませんでした。

第一志望の大学に行き、
第一志望の会社に入り、
優しい夫と結婚し、
行きたかった留学にも行き、
帰国後も自分のイメージ通りの仕事をし、
思い描いていた通りのライフスタイルを謳歌していました。

そんな私が、生まれて初めて体験した、思い通りにならない現実。

・・・今振り返れば、

あんさん、思い通りの人生ほどつまらんもんはないで。
ホンマいい体験したなあo(^▽^)o

って感じなのですが(なぜか大阪弁^^;)
あの時期は間違いなく、私の人生で最も苦しかった数ヶ月間でした。

 

そんな苦しい毎日を送っていた私がついに自分の気持ちに折り合いをつけることができたのは、あるお医者様との出会いによってでした。

 

・・・続く。