良い死に方とは


皆様、

新緑がまぶしい、良い季節になりましたね。いかがお過ごしでしょうか。

さて私、ここのところ、人生のしくみについて研究することにはまっております。
こちらのブログでも何度か書いたように、最近までの研究対象は「お金」だったのですが、
近頃は、「死」について考えることが多くなりました。
これって、年を取ったせいかなとも思うのですが(もうとっくに人生の折り返し点は過ぎましたのでね)、
でも、しんみり考えているのではなく、結構考えるとワクワクしたりするのです(笑)。
何にしても、人生のしくみを解き明かしていくのは、楽しい作業ですよね。

私の友人に、心から尊敬する臨済宗の僧侶がいます。
彼はチベットで修行をされたのですが、
チベットには、死相でその人の成仏度合いを見る行があるといいます。
面白いのは、実際の死に顔だけではなく、時間が経ってからでも、その人の遺影を見ると成仏したかどうかが分かるのだとか。
遺影の顔も変わるんだそうです(!)。
本当に、人の生き死には奥が深いなあと思います。

私にはもちろん、そんな能力はありません。
ただ、ここ数年、身近で亡くなる方を見ていると、
その人の死に方が良いものだったのかどうかは、だいたい分かる気がしています。

ひとつ感じているのは、
良く死ぬということは、死んだ瞬間に安らかに息を引き取ったかどうかとはあまり関係ないんだなということです。

では、どこで判断するのか。

それは、亡くなった後の、身近な人たち(主に家族)のあり方です。

いろいろな業績を挙げ、人から尊敬され、お葬式に何百人の人が集まったとしても、
遺された家族が苦しんでいれば、その人は良く死んだとは言えないと思います。

家族が苦しむ理由はいろいろあります。

もちろん、相続問題などは論外ですが、
そこまでではなくても、本人が死を受け入れられずに亡くなる場合や、
最後まで家族の一部と和解せずに亡くなる場合、
家族の行動を縛るような遺言を残して亡くなる場合、
その人に家族が依存しきっていていた場合・・・などなど。

逆に、ああ、この人は良い死に方だったんだなあと思う人に共通しているのは、
遺された家族が、とても明るいことです。
もちろん、死んだ直後はショックで悲しむのですが、その悲しみを引きずらない。
そして、楽しい想い出ばかりが蘇ってきたり、ふとした拍子にその人の言葉を思い出したり、
その人の存在から、力をもらい続けることができる。
そんな亡くなり方が、一番良い死に方なのではないかと私は思います。

死というのは、肉体を脱ぐというだけのことなので、
よく考えたら、それほど嘆き悲しむことではないですよね。

もちろん、身体を持って会えないのはさびしいですが、
余計なものが入らないぶん、その人と自分との関係がどんどん純化されていくという側面もあります。
現に私は、父が死んだ後の方が、よほど彼と仲がいいです(笑)。

どんな人でも、100%、その人なりの人生を生ききっているので、
「良い死に方」「良くない死に方」というカテゴリー分けはそもそも間違っているとは思いますが、
でも、良く死ぬということは、すなわち良く生きることに他ならないので、
どうせなら、良い死に方をしたいものですよね。

ちなみに私の夢は、私が死んだ後のお別れ会で、
こぢんまりした人数の参加者全員に、飲み食いしながら私との思い出をひとことずつ語ってもらい、
そのときに必ず、一度は笑いを取ってもらうことです(笑)。
これ、遺言代わりにここに書いておきますね(爆)。皆様どうぞよろしく。

その夢をかなえるためにも、日々出会う人、ひとりひとりとの間に、
たくさん笑えるエピソードをつくって生きていきたいなあと思います。

皆様が、今日もどうぞ、いちにち笑って過ごせますように。

先週末、チェロの発表会でバッハを弾きました。
演奏の出来はともかく、バッハの曲は本当に素晴らしいです。2ヶ月毎日練習しても全然飽きませんでした。
次は何を弾こうかな〜と妄想するのも楽しいです(笑)。